2012年2月13日月曜日
草枕と格闘するの記
草枕の下のくだりを読んだ。草枕は何度も読んでいるが、いつも、適当に読み飛ばしてしまう。時間もあるので、少しずつ、精読してみたいと思い読んでいるのである。漱石の文には漢詩が多く登場する。いろいろ調べてみないと分からない難しい表現が多い。特に心理描写ではその傾向が強い。文学論、芸術論、人生観を語る場面はなかなかはかどらない。広辞苑を調べても、ネットで情報を集めても分からないことは、文脈から想像するしかない。でも、面白い、そして深い。
志保田のお嬢様が、振袖姿で向こう二階の廊下を行き来するくだりです。
草枕(夏目漱石)
手掛(てがか)りのない鉛筆が少しずつ動くようになるのに勢を得て、かれこれ二三十分したら、
青春二三月。愁随芳草長。閑花落空庭。素琴横虚堂。蛸掛不動。篆煙繞竹梁。
(せいしゅん にさんがつ。うれいは ほうそうにしたがって ながし。かんか くうていに おち。そきん きょどうに よこたう。しょうしょう かかりて うごかず。 てんえん ちくりょうを めぐる:春の2・3月のころ。我が憂いは 若草の成長に従って 深まる。静かに咲く花は、人気のない庭に散り。飾り気のない琴は、誰もいない部屋に 横たわっている。蜘蛛は、糸を張ってじっと動かず。お香のゆらゆらと立ち上る煙は、竹の梁のあたりにたゆっている。)
と云う六句だけ出来た。読み返して見ると、みな画になりそうな句ばかりである。これなら始めから、画にすればよかったと思う。なぜ画よりも詩の方が作り易(やす)かったかと思う。ここまで出たら、あとは大した苦もなく出そうだ。しかし画に出来ない情(じょう)を、次には咏(うた)って見たい。
あれか、これかと思い煩(わずら)った末とうとう、
独坐無隻語。方寸認微光。人間徒多事。此境孰可忘。会得一日静。正知百年忙。遐懐寄何処。緬白雲郷。
どくざせきごなく ほうすんびこうをみとむ にんげんいたずらにたじ このきょうたれかわするべけん たまたまいちにちのせいをえて まさにひゃくねんのぼうをしる かかいいずこにかよせん めんばくたりはくうんのきょう:この静かな世界に独り黙然として座っていると、心の奥底にかすかな光明が感じられる。思えば人の世はあまりにも多事煩雑であるが、この閑静な境地もまた忘れがたい。たまたま一日の静安を得て、人生がいかに多忙であるかと知った。このはるかな思いをどこに寄せたらよいであろうか、ただ悠久な大空のみがそれにふさわしい。
と出来た。もう一返(いっぺん)最初から読み直して見ると、ちょっと面白く読まれるが、どうも、自分が今しがた入(はい)った神境を写したものとすると、索然(さくぜん)として物足りない。
索然(さくぜん) 空虚なさま。
ついでだから、もう一首作って見ようかと、鉛筆を握ったまま、何の気もなしに、入口の方を見ると、襖(ふすま)を引いて、開(あ)け放(はな)った幅三尺の空間をちらりと、奇麗な影が通った。はてな。 余が眼を転じて、入口を見たときは、奇麗なものが、すでに引き開けた襖の影に半分かくれかけていた。しかもその姿は余が見ぬ前から、動いていたものらしく、はっと思う間に通り越した。
余は詩をすてて入口を見守る。 一分と立たぬ間に、影は反対の方から、逆にあらわれて来た。振袖姿(ふりそですがた)のすらりとした女が、音もせず、向う二階の椽側(えんがわ)を寂然(じゃくねん)として歩行(あるい)て行く。余は覚えず鉛筆を落して、鼻から吸いかけた息をぴたりと留めた。
寂然(じゃくねん) ものさびしいさま。しずかなさま。
花曇(はなぐも)りの空が、刻一刻に天から、ずり落ちて、今や降ると待たれたる夕暮の欄干(らんかん)に、しとやかに行き、しとやかに帰る振袖の影は、余が座敷から六間(けん)の中庭を隔てて、重き空気のなかに蕭寥(しょうりょう)と見えつ、隠れつする。 女はもとより口も聞かぬ。傍目(わきめ)も触(ふ)らぬ。椽(えん)に引く裾(すそ)の音さえおのが耳に入らぬくらい静かに歩行(ある)いている。
蕭寥(しょうりょう) ひっそりとして、静かなようす。
腰から下にぱっと色づく、裾模様(すそもよう)は何を染め抜いたものか、遠くて解(わ)からぬ。ただ無地(むじ)と模様のつながる中が、おのずから暈(ぼか)されて、夜と昼との境のごとき心地(ここち)である。女はもとより夜と昼との境をあるいている。 この長い振袖を着て、長い廊下を何度往き何度戻る気か、余には解からぬ。
いつ頃からこの不思議な装(よそおい)をして、この不思議な歩行(あゆみ)をつづけつつあるかも、余には解らぬ。その主意に至ってはもとより解らぬ。もとより解るべきはずならぬ事を、かくまでも端正に、かくまでも静粛に、かくまでも度を重ねて繰り返す人の姿の、入口にあらわれては消え、消えてはあらわるる時の余の感じは一種異様である。
逝(ゆ)く春の恨(うらみ)を訴うる所作(しょさ)ならば何が故(ゆえ)にかくは無頓着(むとんじゃく)なる。無頓着なる所作ならば何が故にかくは綺羅(きら)を飾れる。 暮れんとする春の色の、嬋媛(せんえん)として、しばらくは冥(めいばく)の戸口をまぼろしに彩(いろ)どる中に、眼も醒(さ)むるほどの帯地(おびじ)は金襴(きんらん)か。
嬋媛(せんえん) うるわしいさま。たおやか。つややか。
あざやかなる織物は往きつ、戻りつ蒼然(そうぜん)たる夕べのなかにつつまれて、幽闃(ゆうげき)のあなた、遼遠(りょうえん)のかしこへ一分ごとに消えて去る。燦(きら)めき渡る春の星の、暁(あかつき)近くに、紫深き空の底に陥(おち)いる趣(おもむき)である。 太玄(たいげん)のもん おのずから開(ひら)けて、この華(はな)やかなる姿を、幽冥(ゆうめい)の府(ふ)に吸い込まんとするとき、余はこう感じた。
幽闃(ゆうげき) ほのかで静かなこと 遼遠(りょうえん) はるか遠いこと
太玄(たいげん) 宇宙万物の根元 幽冥(ゆうめい) あの世
金屏(きんびょう)を背に、銀燭(ぎんしょく)を前に、春の宵の一刻を千金と、さざめき暮らしてこそしかるべきこの装(よそおい)の、厭(いと)う景色(けしき)もなく、争う様子も見えず、色相(しきそう)世界から薄れて行くのは、ある点において超自然の情景である。刻々と逼(せま)る黒き影を、すかして見ると女は粛然として、焦(せ)きもせず、狼狽(うろたえ)もせず、同じほどの歩調をもって、同じ所を徘徊(はいかい)しているらしい。
身に落ちかかる災(わざわい)を知らぬとすれば無邪気の極(きわみ)である。知って、災と思わぬならば物凄(ものすご)い。黒い所が本来の住居(すまい)で、しばらくの幻影(まぼろし)を、元(もと)のままなる冥漠(めいばく)の裏(うち)に収めればこそ、かように間靑(かんせい)の態度で、有(う)と無(む)の間(あいだ)に逍遥(しょうよう)しているのだろう。
間靑(かんせい)の態度で 「のどかに悠然と」の意味か?
女のつけた振袖に、紛(ふん)たる模様の尽きて、是非もなき磨墨(するすみ)に流れ込むあたりに、おのが身の素性(すじょう)をほのめかしている。
またこう感じた。うつくしき人が、うつくしき眠りについて、その眠りから、さめる暇もなく、幻覚(うつつ)のままで、この世の呼吸(いき)を引き取るときに、枕元に病(やまい)を護(まも)るわれらの心はさぞつらいだろう。
磨墨 墨のような黒 紛(ふん)たる模様 ぼやとしてよく見えない模様
おのが身の素性(すじょう)をほのめかしている。 何者であるかがわかる。
四苦八苦を百苦に重ねて死ぬならば、生甲斐(いきがい)のない本人はもとより、傍(はた)に見ている親しい人も殺すが慈悲と諦(あき)らめられるかも知れない。しかしすやすやと寝入る児に死ぬべき何の科(とが)があろう。
眠りながら冥府(よみ)に連れて行かれるのは、死ぬ覚悟をせぬうちに、だまし打ちに惜しき一命を果(はた)すと同様である。どうせ殺すものなら、とても逃(のが)れぬ定業(じょうごう)と得心もさせ、断念もして、念仏を唱(とな)えたい。
死ぬべき条件が具(そな)わらぬ先に、死ぬる事実のみが、ありありと、確かめらるるときに、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と回向(えこう)をする声が出るくらいなら、その声でおういおういと、半ばあの世へ足を踏み込んだものを、無理にも呼び返したくなる。
仮(か)りの眠りから、いつの間(ま)とも心づかぬうちに、永い眠りに移る本人には、呼び返される方が、切れかかった煩悩(ぼんのう)の綱をむやみに引かるるようで苦しいかも知れぬ。慈悲だから、呼んでくれるな、穏(おだや)かに寝かしてくれと思うかも知れぬ。それでも、われわれは呼び返したくなる。
余は今度女の姿が入口にあらわれたなら、呼びかけて、うつつの裡(うち)から救ってやろうかと思った。しかし夢のように、三尺の幅を、すうと抜ける影を見るや否(いな)や、何だか口が聴(き)けなくなる。今度はと心を定めているうちに、すうと苦もなく通ってしまう。
なぜ何とも云えぬかと考うる途端(とたん)に、女はまた通る。こちらに窺(うかが)う人があって、その人が自分のためにどれほどやきもき思うているか、微塵(みじん)も気に掛からぬ有様で通る。面倒にも気の毒にも、初手(しょて)から、余のごときものに、気をかねておらぬ有様で通る。今度は今度はと思うているうちに、こらえかねた、雲の層が、持ち切れぬ雨の糸を、しめやかに落し出して、女の影を、蕭々(しょうしょう)と封じ了(おわ)る。
七
寒い。手拭(てぬぐい)を下げて、湯壺(ゆつぼ)へ下(くだ)る。 三畳へ着物を脱いで、段々を、四つ下りると、八畳ほどな風呂場へ出る。石に不自由せぬ国と見えて、下は御影(みかげ)で敷き詰めた、真中を四尺ばかりの深さに掘り抜いて、豆腐屋(とうふや)ほどな湯槽(ゆぶね)を据(す)える。槽(ふね)とは云うもののやはり石で畳んである。
鉱泉と名のつく以上は、色々な成分を含んでいるのだろうが、色が純透明だから、入(はい)り心地(ごこち)がよい。折々は口にさえふくんで見るが別段の味も臭(におい)もない。病気にも利(き)くそうだが、聞いて見ぬから、どんな病に利くのか知らぬ。もとより別段の持病もないから、実用上の価値はかつて頭のなかに浮んだ事がない。ただ這入(はい)る度に考え出すのは、白楽天(はくらくてん)の
温泉(おんせん)水滑(みずなめらかにして)洗凝脂(ぎょうしをあらう)と云う句だけである。
温泉と云う名を聞けば必ずこの句にあらわれたような愉快な気持になる。またこの気持を出し得ぬ温泉は、温泉として全く価値がないと思ってる。この理想以外に温泉についての注文はまるでない。 すぽりと浸(つ)かると、乳のあたりまで這入(はい)る。湯はどこから湧(わ)いて出るか知らぬが、常でも槽(ふね)の縁(ふち)を奇麗に越している。春の石は乾(かわ)くひまなく濡(ぬ)れて、あたたかに、踏む足の、心は穏(おだ)やかに嬉しい。
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