2012年2月16日木曜日

橋下徹氏は、何故かくも熱狂的に支持されるのに、多くの人に違和感や嫌悪感を与えるのか


  大阪市の橋下市長率いる「大阪維新の会」にメディアの注目が集まっている。その中心となっている「橋下徹氏」の大胆で強烈なメッセージは、閉塞感に不満のやりどころを失っていた多くの人々の心をひきつけるに十分な魅力を持っている。

いまや、新興宗教の教祖様かタレントやプロスポーツのスター選手の様相である。しかし、他方、橋下氏に対して「違和感」「警戒感」「嫌悪感」「不信感」「反感」をいだく人々も少なくないのである。かく言う、私も橋下氏には「違和感」「嫌悪感」を抱くものの一人である。

一度も会ったことも、話したことも無いやつが、「僕のことを論じるなんて サイババか!」と橋下氏に怒られそうだが、精神や脳や思考方法を考察するには、直接お会いしたり、会話したりすることは必須の条件ではないと申し上げておく。

さて、橋下氏の提案や発言がどうしてこのように相反する両極の評価を受けるのであろうか。それは、偏に彼の発想が普通の政治家や役人とは全く異質の方法から生み出されるからだろうと思うのだ。

物事の発想法には「「演繹的な発想」と「帰納的発想」とがあることはご存知だろうか。

凡人は物事を「1が2であり2が3であれば、1と3とは同じだ」という如く論理的に発想する。いわゆる「3段論法的発想」なのである。この論法は異論をさしはさむ余地がないので、多くの人が共通の認識を持つためには欠くことのできない論法なのである。これを「演繹的な発想」と言う。この論法は、これから行おうとすることの結果をかなり確実に言い当てることができ、しかも、その是非、真偽を第3者にも、言語や数式を持って理解させることが可能なのである。

しかし、この方法には決定的な欠陥があるのだ。それは、「想定の範囲内の結果しかえられない。」「誰がやっても同じ結果しかえられない。」ということなのである。これは、脳科学的に言えば「左脳的な発想」とでも言えるのでは無いだろうか。

一方「橋下氏」の発想法は、多分に「帰納的な発想」なのだ。思いつき、ひらめきが最初に結論生み出すのである。今までの経験や理論の延長上には無い発想なのだ。理論が飛躍するのである。だから、橋下氏の提案は新しい社会のあり方を生み出す大きな可能性を秘めていると言う点で私も高く評価していることを申し上げておきたい。「こうなるべきである。」「こうならなければならない。」と言う「命題」が最初に生まれるのだ。
科学の世界でも、新しい発見や発明はこうして生み出される。理論が飛躍している部分は後から埋められるのだ。従って飛躍を埋める理論が確立されたり、事実が確認されるまで、科学の世界ではこれを「仮説」と呼ぶ。ノーベル賞を受賞するような研究成果は、その中に必ずこのような理論の飛躍が含まれているのである。受験一本槍で勉強だけしてきた、中央省庁の官僚には期待できない発想だ。

脳科学的に言えば、橋下氏はおそらく「右脳」の発達した方で、次々と政治や社会のあり方を発想するのだろう。しかしながらその中身は、今まで経験したことの無いことばかりであり、橋下氏の言う通りに上手くいくという証はどこにも無いのである。余りにも、矢継ぎ早にいろいろなことを提案するので理論の裏づけや、それに至るプロセス作りが追いつかないのではないだろうか。この状態で、橋下氏を支持する人々も多分に「右脳系」の方が多いのであろう。言い換えれば、ほとんど「信仰」なのだ。信仰と言って御幣があるというなら「好き嫌い」と言っても良い。

橋下氏及びその支持者には、橋下氏が掲げる「命題」が正しいことを説明する理論やそれに至るプロセスを綿密に検討して構築する責任があるのではないか。それをもって、反対するものたちを説得するのが民主政治の正しいあり方だろう。それが出来て初めて「違和感」「警戒感」「嫌悪感」「不信感」「反感」が解消されるのだろう。

ちなみに、私は、かなり偏った「左脳」人間だと思っている。橋下氏は、この説明をせず、自らの考えに反対する人々を感情的に罵倒したり、反論に答えず反問して口を封じると言うディベート術で抑え込もうとする傾向が強い。これはおそらく論理が飛躍している部分を彼自身が埋められないもどかしさの表れなのだろう。

しかし、この手法は、民主主義社会で政治を行おうとする上では大いに問題なのではないだろうか。反対者の理解や共感を得ないで力ずくで押さえ込むことになるからである。それは、民主社会における物事の決定のプロセスとは大きく異なる。橋下氏は、経済的な危機から日本を救うために政治や社会の仕組みを改革すると主張しているが、方法論的には革命と呼ぶべきだと思っている。しかし、革命と言う手法で誕生する社会は、嫌悪感や反感をそのまま残した矛盾した社会となり、経済問題以上に深刻な問題を生むのではないだろうか。橋下氏にはよくよくの深謀遠慮を望みたい。

作家、三島由紀夫は、天才芸術家だったのだろう。典型的「右脳」人間だったのだ。だから、己にとっては自明の「命題」も他者に理解させることの限界を感じ自衛隊市谷駐屯地での事件に至ったものであろう。橋下氏も今は支持者の中で祭り上げられているのだが、その支持者が果たしてどこまで他者を説得することの出来る論理をもっているだろうかと考えるといささか心もとない。支持者の大半もまた「右脳人間」で、TVなどのメディアで反対を唱える人々を先の手法で圧倒することに喝采して喜ぶレベルなのだ。ぜひ、説得して論破できるようにお願いしたいものである。

今後、橋下氏が直接的、間接的を問わず国政に関与して全国民に理解され支持されるためには、威圧や恫喝や罵詈雑言などの力ずくでは乗り切ることの出来ない大きな山を超えなければならないと思う。どんなよい提案も「反感」や「嫌悪感」がそのまま放置されていては、快く受け入れることが出来ない。「左脳」の人間も結局は「右脳」に支配されるのだ。人間とは、かくも非合理的で矛盾した生き物だと思う。

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